裁判員制度広報に関する懇談会(第2回)

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日時
平成16年9月7日(火)午後1時30分から3時30分
場所
最高裁判所公平審理室
出席者
(委 員)
井田 良,篠田節子,平木典子,藤原まり子,吉田弘正,渡辺雅昭(五十音順・敬称略)
(裁判所)
戸倉審議官,河本総務局参事官,大谷広報課長,大須賀広報課付,中村総務局第一課長,楡井刑事局参事官

席上配付資料

意見をお聞きしたい点(第2回)

  • 裁判員制度について特にどのような事柄を伝えていくべきか。
    • 裁判員制度導入の意義について,何を,どのように伝えていくべきか。
    • 国民の不安,負担感に関する広報はどうあるべきか。
  • 広報活動に当たり,情報発信の目的と情報の受け手の関係についてどのような点を考慮すべきか。
    • 情報の受け手によって,情報提供の方法,内容,時期等について,どのような点に留意すべきか。

配付資料

資料1
裁判員制度広報推進協議会の設置について(8KB)
資料2
司法制度改革審議会意見書(抜粋)
平成13年6月12日 司法制度改革審議会(54KB)
資料3
国民の司法参加に関する裁判所の意見(抜粋)
平成12年9月12日 第30回司法制度改革審議会 (35KB)
資料4
裁判所広報の現状について(506KB)
資料5
最高裁判所ホームページ掲載記事「裁判手続:刑事事件について」項目一覧
資料6
パンフレット「裁判所ナビ」
資料7
パンフレット「What is 「裁判所」?」
資料8
リーフレット「法廷ガイド」

第2回会議録

【大谷広報課長】

裁判所のメンバーが前回と少し替わっていますので,新たに参加したメンバーの自己紹介を行います。広報課長の大谷でございます。

【河本総務局参事官】

河本でございます。参事官として今回から新たにこの会に加わらせていただきます。どうぞよろしくお願いします。

【楡井刑事局参事官】

8月に刑事局参事官としてまいりました楡井と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

【戸倉審議官】

井田委員は前回御欠席でしたので,恐れ入りますが自己紹介をお願いします。

【井田委員】

慶應義塾の井田と申します。大学では法科大学院というところで刑法,刑事法の授業をしております。唯一の法律専門家ということですけれども,同じ刑法,刑事法といっても非常に広く,この裁判員の問題は私の一番遠いところにある問題です。一市民ということで参加しているつもりでおりますので,難しい問題は裁判所にお聞きいただければと思います。

【戸倉審議官】

それでは,懇談に入らせていただきます。前回いろいろ御意見を伺っておりましたが,その中で渡辺委員から法曹三者共通の広報体制をとるべきだという御指摘いただいておりました。その関係で,法曹三者の協議の場を立ち上げたという報告をさせていただきます。

【河本総務局参事官】

裁判員制度の広報活動については,法曹三者の連携と協力が不可欠だと考えております。そこで,去る8月3日,法曹三者による裁判員制度の広報活動の実質的な情報交換,企画の決定,実施,推進について協議を行うことを目的として,「裁判員制度広報推進協議会」を設置いたしました。具体的な体制につきましては,資料1のとおり,協議会及びワーキンググループからなるとされております。いずれも法曹三者が構成員です。
今後の予定ですが,裁判員制度の広報は可能な限り法曹三者の共同企画とする方向で検討することを考えております。それからまた,地方レベルでの法曹三者連携の広報活動の在り方についても,この推進協議会において一定の指針等を示すことができないか,といったことも話題に上っております。
この懇談会で委員の皆様からいただいた貴重な御意見についても,裁判所を通じてこの協議会に情報提供していき,具体的な広報活動に反映したいと考えております。ぜひとも今後ともよろしくお願いします。

【戸倉審議官】

今立ち上がったというところで,具体的にまだ話し合いができているわけではありません。いずれにしても広報の場面に関して言えば,法曹三者がそれぞればらばらなことを言っているのでは国民が混乱するばかりですので,今後の制度設計といった点でいろいろ意見はありますが,当座の広報に関してはできるだけ整合性のあるものをやっていこうという認識は一致していると思っております。今後,具体的な内容が出てまいりましたら,御報告させていただきたいと思います。
それからもう一つ。前回何を国民に伝えていくかという点で御意見をお伺いしました。裁判員制度は国民にかなりの負担をおかけする制度である。そうである以上は国民から見て,例えば現在の刑事裁判にはこういう問題点がある,それが国民が参加することで是正されていくのだ,そういう点で国民が参加していく意義がある,といったような意義付けがあるのではないか。しかるに,少なくとも委員の方々が日ごろお聞きになっている限りでは,そういう議論がされてはいないではないか,という御指摘をいただきました。これらのことを踏まえまして,この裁判員制度を最初に提言した司法制度改革審議会意見書の国民の司法参加に関連する部分の抜粋を資料2として,その際最高裁が行ったプレゼンテーションの抜粋を資料3としてお配りしております。
しかしながら,恐らくこれらの資料を御覧になっても,まだぴんと来られないのではないかと思います。そこで,これまでどういう議論がされ,現時点ではこういうものだと考えているという説明を,大谷広報課長からさせていただきます。大谷広報課長は刑事裁判の経験もありますので,そういった立場も踏まえ,御報告をさせていただければと思います。

【大谷広報課長】

前回懇談会は失礼させていただきましたが,吉田委員を始め多くの方々から,今審議官から話があったような疑問が出されたということを伺いました。
私は裁判官に任官して以来,ほとんどの時期を刑事裁判に関係した仕事をしてまいりまして,そういう観点から見ても,前回各委員から出されたような疑問は当然の御指摘であろうと思いますし,裁判員制度広報を考えるに当たって非常に重要なポイントであると思います。そこで,これまでの議論の状況について御説明したいと思います。
まず,陪審や参審といった西欧型の国民参加の制度を歴史的に振り返ってみますと,制定された当時,それは20年前,30年前ではなく,アメリカやフランスなどでは200年以上前にさかのぼるわけですが,その制定当時にアンシャンレジーム,あるいは植民地本国の裁判官によって行われている裁判・裁判結果というものに対する国民の強い不信感や不満がベースになり,導入されたことは間違いないと思います。
これに対して,今回わが国における裁判員制度が,こうした職業裁判官による裁判における判断,あるいは職業裁判官の裁判結果に対する国民からの強い批判をバックにしたものではないということは恐らく異論のないところだろうと思っております。司法制度改革審議会や国会の議論を見ましても,そうした角度からの議論が戦わされたということはなかったように思いますし,あるいはメディアによる国民意識の調査結果を見ても,世論としてそうした不満が強いとは思われません。
この点に関連しまして,まず資料2を御覧いただきたいのですが,10ページに「国民的基盤の確立」という項があります。第1段落に「21世紀の我が国社会において,国民は,これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し,自らのうちに公共意識を醸成し,公共的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。国民主権に基づく統治構造の一翼を担う司法の分野においても,国民が,自律性と責任感を持ちつつ,広くその運用全般について多様な形で参加することが期待される。国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば,司法と国民との接地面が太く広くなり,司法に対する国民の理解が進み,司法ないし裁判の過程が国民に分かりやすくなる。その結果,司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることになる。」と書かれております。
この趣旨は必ずしも一義的とは言えないようにも思うわけですが,例えばこの意見書を起草,提案されました佐藤幸治教授は,衆議院の法務委員会におきまして参考人として次のように述べておられます。
「三権の一つである司法はこれまで国民から遠い存在であり,主役である行政の背後にかすみ,それだけにかえってお上中のお上といった趣きさえ呈している。」。このように指摘され,審議会意見書の記載を引用された上で,「統治主体・権利主体である国民は,司法の運営に主体的・有意的に参加し,プロフェッションたる法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め,国民のための司法を国民自らが実現し支えなければならない。刑事の場での裁判員制度はその核をなすものである。」
この佐藤意見に示された見解を私なりに一言で要約しますと,国民の司法参加の意義というのは,主権者である国民が司法権の行使に直接かかわることにより民主主義国家としての実質を備えることである,こういった発想であり,刑事司法の現状認識から出発したというよりは,むしろ極めて理念的,政治的な色彩の強い意見になっているように思えます。
そして,こういった佐藤意見のような発想,つまり今申しましたように極めて理念的,政治的な色彩の強い意見等もありますが,こういう考え方を推し進めますと,刑事裁判の柱の一つである事実認定をすべて国民の手に委ねる陪審制の主張に至ることにもなるように思われます。事実,審議会意見書の直後に出されました日本弁護士連合会の意見は次のようなことを言っております。
「裁判員制度は,これからの具体的な制度設計または今後の運用と参加する国民の意識の有り様によって陪審制度につながる制度として重要かつ積極的な意義を持つものと考える。わが国独自の国民参加の制度として今後も陪審制の実現を求める市民の運動と連携して,裁判員制度を真の陪審制に近づける努力をすることが何にも増して緊急の重要課題である。」
このように,裁判官の関与を排除した陪審制への一里塚がこの裁判員制度であると,こういう位置付けをしております。
国民の司法参加に政治的な機能があることは恐らく否定ができないであろうと思いますが,こうした政治的意味合いのみで今回裁判制度を見直すことの説明として十分かどうかということについては,疑問があるように思われます。民主的ということのみを強調して言えば,恐らく陪審制の方が民主的であると思われますが,審議会の意見書は今回陪審制の導入を明確に否定し,広く一般の国民が裁判官とともに責任を分担しつつ協働していくことにより,裁判内容の決定に主体的・自主的に関与する制度を提唱しているのです。
また,これは私見ですが,こうした議論のみに立脚して裁判員制度の広報を展開すると,少なからずの国民の困惑,さらには反発を招きかねないようにも思われます。将棋の先崎学さんが,以前週刊誌のエッセーでこの裁判員制度のことを取り上げ,「何もここまでアメリカの真似をしなくてもよいであろう。私は裁判員に選ばれたら絶対に逃げようと思っている。卑怯者でもいい。それより司法に参加させるなら行政や立法にも参加させてくれ。」と書いておられました。裁判員制度を政治的な立場のみで展開しますと,当然に予想される国民からの一つのリアクションかなとも思います。
そこでまず前提として,裁判員制度の導入の意義をどう考えるかということになります。刑事裁判に携わってきた者の一人としての理解では,やはりこれまでの刑事司法の在り方を踏まえて考えていく必要があるのではないかと思います。それを一言で言いますと,長年法曹三者という法律専門家集団によって運営されてきたことによって,刑事司法に傷みが生じてきた箇所,言い換えれば過度の専門性による閉鎖性というようなものとも言えようかと思いますが,このような傷みが生じてきた箇所を修繕して国民のニーズに合ったものにリニューアルする。このようなことが言えるのではないでしょうか。
もう少し具体的に言いますと,まず第1に,例えば有罪率という問題があります。御承知かと思いますが,わが国の刑事裁判の有罪率は99パーセント以上で,いわば起訴されればまず無罪になることはない,統計から言えばそのような数値になっており,世界的にも類のない高い数字です。これをどう説明するかですが,恐らく法律専門家である検察官にとっては,職業裁判官で構成される裁判所がどのような判断をするかについての予測可能性が非常に高いことから,無罪になる恐れのあるものは起訴しないという行動パターンをとっている結果だと言えるのではないかと思うわけです。それはそれでよいではないかという意見もあろうかと思いますが,例えば,被害者やその遺族が刑事訴追を求めている場合に,そうした専門家による予測可能性に基づき,場合によっては硬直したととられかねない判断の結果起訴しないという処理をした場合に,それは到底納得できないというケースも増えてきているように思われます。
第2の例として,専門家の中だけで訴訟活動が進行すると,どうしても過度なまでに詳細な事実認定を求める訴訟活動を排斥しにくいといったことがあるように思われます。要するに非常に濃密な証拠を収集し,公判の証拠調べも非常に濃密に行われがちになるわけです。しかし,マスコミ等を通じて,裁判に余りにも時間がかかり過ぎるではないかといった批判が加えられますし,出てきた結論に対しても濃密な証拠調べをしている割には法廷では結局真相が解明されていないではないかといった批判もしばしば加えられます。そういうことを考えると,現在の裁判の在り様によって国民に対する説明責任が十分果たされているかという点も疑問があるように思われます。
第3に,専門家のみに通じる用語や概念が,本当にそれが必要なのかどうかという検討が加えられないままに数多く放置され,法廷内を飛び交っている。これは刑事訴訟手続についてだけでなく,井田先生の御専門の刑法についても,そういった面があるように思われます。あるいは量刑という,最終的に有罪になった場合の結果について刑の相場というものが存在するわけですけれども,その趣旨が十分説明されていない。このように,専門家のみによって裁判作用が長く行われてきたことによって,裁判の有り様が国民に分かりにくいものになっているといった点も恐らく指摘できるだろうと思います。
以上のように考えますと,わが国の刑事裁判は,法律専門家による裁判という形式を徹底したために,民主主義の下での裁判において欠かせない国民の理解と支持という観点から見ると,現状では一つの限界点に達しているのかなと感じます。しかも,社会の変動,例えば,犯罪が非常に組織化し国際化している,あるいはITを利用した犯罪が非常に増加している,こういったことに伴いまして,今後刑事裁判・刑事事件がますます複雑化することが予想されます。それから国民感情から見たときに,裁判の迅速化という要請も一段と強まってくるだろうと思われます。これらもあわせて考えると,このままでは裁判と国民との距離がさらに離れていくことも懸念されます。
こういった問題点を踏まえて,刑事裁判をいわばリニューアルする,裁判官だけではなくて検察官も弁護士も含めたすべての実務家が担っている専門性,あるいは裁判の正確性,真実解明といった機能は基本的に維持した上で,傷んだ部分を是正して裁判に対する国民の理解を得ていくために,国民が裁判に加わってもらうことが最も望ましいのではないかと考えられます。
先ほど問題としました点について具体的に言えば,例えば,国民が加わってくれることによって検察官・弁護士の活動を含めて裁判が公判を中心とした分かりやすいものになるでしょうし,これまで長期化しがちだった裁判の期日も集中して入れられるようになるでしょう。また,国民の意見や疑問が反映されるという面もあります。それから裁判官として言いますと,常にその裁判事件については一般国民と会話しながら審理を進めることになるわけですから,自分の感覚が国民から乖離することのないように努めることにもなるのだろうと思います。こういった作用全体を通じて,国民の司法に対する理解を深め,司法全体の基盤を強化することになるのではないかと考えるわけです。
同じようなことを繰り返して恐縮ですが,裁判員制度の導入の意義を大雑把に一言で言うと,国民に分かりやすい裁判への転換と言うこともできるかと思われますが,それは単に法廷用語を「である」調から「です・ます」調にするということにとどまるものではなく,今申し上げましたように国民と専門家が協働して,裁判官,検察官,弁護士という法律専門家集団による裁判作用,この枠組み自体を少し動かして,国民的な理解,基盤の上に立った専門性を実現するという大きな意義を有していると考えられます。
実は,これは司法の分野だけではなく,例えばインフォームド・コンセントという問題,あるいは情報公開といった問題も,今述べましたような国民的な基盤の上に専門性を成り立たせるという意味では,恐らく同じ平面上で理解できるのではないかと思っております。 資料2の10頁の第2段落,「国民が司法に参加する場面において,法律専門家である法曹と参加する国民は,相互の信頼関係の下で,十分かつ適切なコミュニケーションをとりながら協働していくことが求められる。司法制度を支える法曹の在り方を見直し,国民の期待・信頼に応えうる法曹を育て,確保していくことが必要である。国民の側も積極的に法曹との豊かなコミュニケーションの場を形成・維持するように努め,国民のための司法を国民自らが実現し支えていくことが求められる。」というくだりについては,そのようなことを述べていると理解できると思っています。

【戸倉審議官】

御意見をお聞きする場でありながら少し長い御説明になりましたが,これは,前回,制度導入の意義をどう伝えるかが非常に大きな問題点であったと思われたからです。果たして国民が「それならば,やはり自分たちが参加してこの制度を支えていかなければならないのだ。」という意識になっていただけるか。今の説明に対する御意見も含めて,さらに裁判員制度導入の意義が国民にどう受け止められるだろうかといった点から,御意見を伺えればと思います。ただ,今御説明したことは,抽象的には非常に分かりやすい,頭の中では理解できることですが,伝える側から言いますと,どう伝えるのかも含めてかなり抽象的なので,もう少し分かりやすいレベルの言葉や概念に置き換えて伝えなくてはならないのではないかと思います。そこで,今の説明では国民はこういうふうに受け止めてこういう反応を示すのではないか,だからこういうふうに言い換えてこういう説明をするのがよいのではないかなど,御意見をお聞かせいただければと思います。

【井田委員】

どこから始めてよいか難しいのですが,今回の司法制度改革は,日本の法の歴史の中ではかなり画期的なものだと言えると思います。どこが一番画期的かと言うと,今までの大きな法制の改革というのは,大体が外圧があったからなのです。外圧があって,そこから強制されて仕方ないということで大きな改革をしたわけです。そういう意味で言うと,必要に迫られてアドホックな小さな改革はできる。それから,外圧が後ろに控えていて,仕方がなくて大きな改革をすることもできる。
ただ,何かの理念に基づいて,理念を形にするという改革はしてこなかった,と言いますかできなかったのです。異論があるかもしれませんが,私は,今回の改革は日本人がある理念というものを前提にして,これを形にしなければいけないという形で大きな改革をしようとしている,ある意味で初めての試みだととらえることができると思います。
それを一番最初にやっているのが法科大学院で,ここで失敗したら全部こけてしまうかもしれないから,日夜過労死寸前の状態で頑張っているのです。そういう意味で日本人にとって一番不得意な改革でした。これを例えば,何か必要に迫られて,あるいは外圧があるということで,仕方がなくて動きましょうかという改革であれば比較的スムーズにいくかと思うのです。しかし,そういうものがないところで,ただ単に理念,つまり法治国家や民主主義の実質化,あるいは司法の民主化をするのだ,というようなことで,具体的にある1日を犠牲にして片道1時間半ぐらいかけて来てくださいと国民に対して要請するときに動いてくれるかどうかは,これは非常に難しいところがあります。
ただ,前に行かなければいけないので,進めなければいけないと思います。例え最初は拒否して来てくれなくても,それは仕方がないとして,そこから始める。これを失敗したら,恐らく日本人というのは大したことのない国民だといって笑われてしまうので,理念を形にできる国民だと示さなければいけない。そういう意味で言うと,一生懸命宣伝をして,あまり効果が上がらなくても頑張って,何とか何年後には,というように壮大に考えていくほかない。あまりイメージで嘘みたいなもの,「簡単なものですよ。」,「おもしろいですよ。」というようなことで引っ張ってきても長続きしないと思うのです。こういうものだということを示す,「これもやらなきゃいけませんよ。」ということを訴えていって,来てくれる人に来てもらうという,正面から直球を投げることしかないと思います。何かグッズを配りますから来てくださいというような,変なまやかしの球を投げて来てもらうというような方法が,私は一番よろしくないと思います。それで失敗したら本当に目もあてられない。正面から国民を信頼してよいのではないかと思います。

【戸倉審議官】

私ども広報を行う側としては,来なくても仕方がないとはなかなか思い切って腹をくくれないものですから,おすがりする思いです。
意義を伝えるというところが一番難しいところです。恐らく後で出てきますいろいろな問題点に対しては,いろいろな情報を提供することである程度は解決する面もあるでしょうが,この意義については,最大限のことをお伝えしようとしても,必ずしもペーパーとしてはっきりしたものは出てこない部分もあると予想されます。

【藤原委員】

先ほど,この改革は陪審制への一里塚という位置付けではあるが,今回の意見書の中では陪審制は明らかに否定しているとおっしゃったのですが,この陪審制への一里塚という位置付けは,裁判員制度について今おっしゃったことと矛盾するように聞こえましたが。

【大谷広報課長】

私が申し上げましたのは,政治的な色彩のみを強調してこの裁判員制の導入の意義を考える考え方があり得るだろうと思うわけです。そういう考え方を徹底すると,裁判員制度はまだ通過点であって,本来的には陪審制に行き着くべきものだという考え方にもつながっていくのではないかということです。ただ,そういう政治的な意味合いだけで今回の改革を行ったと考えることにはいささか疑問があり,他の考え方もあるのではないか。現実に審議会意見書を見ても陪審制をとらないということをはっきりと明言しております。ということは,審議会意見はそういう政治的な色彩の観点だけでこの制度改革を行おうとしたわけではなく,もう少し現状認識を前提としたものをとったのではないか。客観的な審議会意見書の成り立ちなどからすれば,こう言えるのではないか。そういう御説明をしたわけであります。

【藤原委員】

はい,分かりました。

【吉田委員】

大谷課長の御説明があり,井田先生からもお話がありましたが,今回のこの司法制度改革,裁判員制度の導入は,国民主権とか民主主義とか,そういった理念に基づいて,立法,行政と並んで三権の一翼を担う司法について,国民が積極的に参画することが大変意義があるということで出来上がった改革であるということは,まさにそのとおりだろうと思います。そのことをきちんと国民に明らかにしていくということは大事なことだと思いますが,それだけでは国民には,「何で我々がそれに行かなければならないんだ。」となるのかもしれません。もう少し具体的に,国民が裁判に参加して専門家の裁判官と一緒に協働して裁判をするときに,どういうメリットがあるのか,裁判がどう変わるのか,ということを明らかにしておいた方がよいのではないかと思います。プロの裁判にアマチュアの裁判員が入ることによって,国民の多様な意見が裁判に反映されて裁判が分かりやすくなるし,国民に身近なものになるだろうし,あるいは国民の感覚から裁判が遊離しないというようなことが,わが国の裁判制度において大変重要なことではないかということを少し分かりやすくPRしたらどうかという気がします。

【戸倉審議官】

具体的にどこが変わるかというところですね。必ずしも何が悪くてよくなるというよりは,国民から見て今の裁判とはこんなものだ,それが自分たちが参加することによってこう変わるというイメージが提示できれば,これは一つの有力な手法にもなろうかと思います。では具体的に今の国民から見て刑事裁判がどう見えていて,国民が参加すればこうなるというもの,国民から見て最も期待できる方向性やイメージはどんなものなのかという点ついても御意見を伺えればと思います。

【平木委員】

要は国民の裁判に対するアカウンタビリティへの問いと,裁判に対して国民がどうアカウンタブルになりうるかということの両方を説明できる必要があるのでしょう。そうすると,今吉田委員がおっしゃった,どれほど国民が参加すると効果的かという説明が,先ほどの説明には余りないと思われます。つまり,アカウンタビリティが高くなるという方を一生懸命強調していて,国民が参加するとどういう裁判に変わるかという方のイメージがなかなか見えていないように感じます。そちらを示すにはどうするかというのは私にはよく分かりませんが,例えば裁判官がどんなことをしているのかを新聞などで読むと,実際裁判がどんなプロセスでどんなことを決めたのかがよく分かったり,あるいは納得したり,イメージを持つことができます。私が一番印象深かったものに,裁判官がどれほど人間的な側面をいろいろ考えながら判決を下しているかが分かる新聞記事を読んだとき,裁判とは冷たく厳しいもので絶対に関わりたくないものだというイメージではなく,非常に人間が人間として人を救ってくれるようなものでもあるというイメージを持つことができたことがありました。
それで,私は裁判,特に刑事裁判は先ほど99パーセントが有罪という難しく,厳しいものであると同時に,この間もお話ししたように,ヒューマンエラーを人間が救ってくれるものであるという側面を強調してほしいと思います。ヒューマンエラーは,誰かがどうにかして救わなければならなくて,その救い方の一つに裁判があり,その裁判はある人にとっては救いであったり,助けであったり,意味があったりするのだという側面も,どこか強調されないと,国民が参加する意味というのは見えないのではないかという気がしています。ありがたいものであるということは,伝えられないのでしょうか。

【戸倉審議官】

ありがたいものに参加すると伝えていくということですか。

【平木委員】

はい。ありがたいものに参加する。もしかしたら国民が参加することによって,ありがたいものにすることができるかもしれないという何かがないかと思っています。そういった国民の心理をどうにか刺激してほしいと思います。

【戸倉審議官】

制度の意義を御説明しましたが,決してそれは確定的な正解というつもりではありません。むしろ,それぞれの委員が意義はここにあるというお考えをお話しいただき,こう伝えるべきではないかという御意見も伺えればと思います。

【井田委員】

今,裁判官がやっていることは何か,例えば仕事は何かと言われれば,大雑把な言い方ですけれども,三つぐらいあると思います。一つは,ある事件で何が起こったのかということの確認。もう一つは,法律をどう読むかということ。三つ目は,ある犯罪にどういう刑が一番正しい刑なのか。恐らく何が起こったのかという確認について言うと,私は裁判員が入ったとしてもそれほどドラスティックに変わってくることはないと思っています。外から見て素人が入ったことによって正当性が高まるということはあるかもしれませんが,中身ががらっと変わるという議論にはならない。二つ目の法律をどう読むかについては,若干の議論の余地はあると思いますが,オール・オア・ナシングでいうと,恐らく裁判員の役割ではない。私は恐らく3つ目のどういう刑が正しいのか,という点が大きく影響を受けるのだろうと思います。いろいろな場面が考えられます。例えば,子育てをしたことのある主婦がいて,「あなた,子供を育てるというのはそんなものじゃないですよ。」といった感覚が量刑に反映するということは多いと思います。「大変なことなんですよ。苦しい状況だし,この行動をとった被告の気持ちはよく分かりますよ。」というようなことが量刑に入ってくるでしょう。あるいは,タクシーで酔っぱらって,かっとなって運転手を殴ってしまったといった事件で,「殴ったサラリーマンの気持ちは分かります。」といったことになってくると,またそこで判断に少し影響が出てくるのではないか。私のイメージだと,そのような量刑の場面ではかなり裁判員の方がいろいろなことを言う余地があるのではないかなと思われます。必ずしも刑を重くする方向に行くばかりではなく,「いやそれは重過ぎますよ。温かい判断でよいのではないですか。」という,刑を軽くする方に行く可能性もあり,いわば,来て,その甲斐があったと思えるようになるのではないのかなと思います。もう少しいろいろな場面で裁判員の人が来てよかった,甲斐があったという思いが実感できるようなものを集めて,方向を示すべきだと思います。

【平木委員】

私は,裁判では関係者や国民にとって最も納得のいく結論が出るだけであって,必ずしも正しい結論ではないと思っています。最も納得のいくことが正しい結論に近いというだけで,裁判官の判決でさえ,「私はこう思っています。」と言っているだけであって,「これが絶対真実です。」とは言っていないと思います。そのような意味でそこに国民が参加でき,どう思っているかということが集約されることには,非常に大きい意味があると思います。

【戸倉審議官】

よく「真実を発見する」と裁判について言いますが,それがかえっていけないのでしょうか。

【平木委員】

果たして人間は真実を発見できるかどうか,わからないと私は思っています。

【井田委員】

専門家はよく真実は合意だという言い方をする人もいて,真理合意説という見解もあるので,結論に納得できれば問題はない。そうすると,国民が入っているほうが結論の説得性が増すということになります。

【戸倉審議官】

その納得を得るために,今まで我々裁判官がやってきた裁判でよく言うのは,デュープロセス,つまりきちんと手続的保障を与えて裁判をやってますといったことでした。判断のプロセスに国民が参加することが,その納得性を高めるのにかなり大きな意味があるのであれば,そのあたりをセールスポイントとして具体的にどういう言い方で伝えていけばよろしいでしょうか。

【井田委員】

裁判官はものすごく優秀なのです。優秀だから敷居が高い。先ほど大谷さんがおっしゃいましたが,フランス革命のときにフランスが陪審制を入れたのは,まさに「貴族のわけのわからないのがやってきて裁判してけしからん。だから,国民が入っていかなければいけない。」という,裁判官はけしからんという理由で陪審制になるわけです。ところが,今現在日本では,優秀な裁判官を国民が信頼している。そこに国民が入っていくと,逆に裁判に対する信頼を失う方向に行く可能性はないでしょうか。

【渡辺委員】

私も記者や論説委員として司法制度改革の動きを取材し,その中で国民の司法参加の意義や裁判員制度への期待なども書いてきたつもりなのですが,前回の皆さんの議論を伺っていて,なかなかそれを伝えきれていなかったなと思いました。物事を伝え,認識や理解を深めてもらうことの難しさを改めて実感し,いろいろ反省したところです。ほかの国が何百年かけて培ってきたものをわずか5年間の準備で,しかも井田先生がおっしゃるところの不得手なことをこんなに一度にやろうというのは,本当に難しいことだと思います。私も,この制度にはいろいろな角度から見て様々な意義があると考えています。それを何度でも繰り返し伝えていく,むだを承知で何度も何度も説明をしたり質問を受け付けたりして,制度を進める側はこう考えるというところを示していく。そして実際に制度が動き始めた後は,司法参加を体験した人たちにもそれぞれの思いを話していただく。中にはとんでもない制度だと言う人もいるでしょう。でも,そうやって論点がいろいろな形で浮き上がることによって,5年,10年かけて制度の意義がだんだん伝わっていくのではないでしょうか。少し長い視野で見た方がよいし,また見なければいけないのではないかなという気がします。
先ほど戸倉さんがおっしゃっていた,裁判員制度によって今の裁判がどのように変わるのかを,いかにアピールするかという問題ですが,先ほど話題に出た有罪率の問題もあって,今の刑事裁判は儀式になっているという捉え方が広くあるのではないでしょうか。当事者や法曹三者の方はもちろん一生懸命なのでしょうが,外から見ると,何となくある人間に刑を科すために踏まなくてはならない手続・儀式であり,だからこそ厳格でなくてはいけないし,厳粛でなくてはいけないというイメージなのではないかと思います。厳粛であり厳格でなければならないのは,裁判員制度であっても同じだとは思いますが,やはり私を含めた素人が入っていくことによって,それがどう変わるのか。口頭主義とか直接主義とか言ってしまうと非常に分かったような気になってしまいますが,そういう決まり文句で片づけるのではなく,生き生きした法廷にどう変わっていくのか,そのあたりをイメージとしてつかめるようになってくると,「ああ,裁判員制度というのはこんな意味があるのか。こんな可能性があるのか。」,さらに「自分たちが参加することにもなるほど意義があるのだなあ。」といった思いが生まれてくるのではないかという気がします。

【戸倉審議官】

意義をまじめに考え,きちんとした説明をある程度深くしていく一方で,キャッチフレーズ的なもう少しとりつきやすい説明も必要ではないかと考えてしまうのですが,このようなある意味では固い話を我々が伝えていこうとしているときに,これを正攻法で伝える形でいくのがよいのか,それとももう少しとりつきやすい形で何か工夫していくのがよいのか,どちらが良いでしょうか。

【藤原委員】

まず理念というのは,きちんと整理されて語られなくてはいけないと思います。それを言い当てたようなキャッチフレーズがあればそれを使うことはできると思いますが,サブタイトルにも必ず理念が1行なり2行なりでうたわれていることがとても重要なことではないかと思います。キャッチフレーズを使えば使うほど,イメージだけが独り歩きして理念から離れていってしまう。だから読む,読まないは別にして,必ず理念がペアできちんとついている方法がよいと思います。
先ほどから,裁判がどう変わるかという話があるのですが,刑が決定するまでに,ごく普通の人にとって分かりやすく,納得できるプロセスを踏んで,おおよそ納得できるような量刑に落ち着くということは,とても安心感があると思います。それを理念として高らかにうたい上げることは可能かと思います。しかし,やはり最も伝えるべきところは,裁判員の参加は,我々にとってプロセスが明らかになるだけではなく,とても納得のいく,分かりやすい,そして我々がそうあるべきだろうと言えるような刑に落ち着くということだと思います。だからといって,今までの刑が落ち着いていなかったのかといえば,そうではないと思いますが,判決文は当事者でない限り全文を読むことはほとんどないと思います。私は,新聞やほかのメディアでも,本当は全文がもっときちんと載る必要があると思います。その判決文の中に,今までのプロセスとそれに対するさまざまな思いが全部書かれているのですから,判決文がとても大事なものであるにもかかわらず,全くその部分が国民には見えず,最後の刑の部分だけが独り歩きしていることが,とても残念な気がします。今回最終的に裁判員が参加する時点までの間に,もう少し判決のプロセスを公にするということを含めて,判決文がもっとオープンになるような活動を並行して行った方が良いと思います。

【大谷広報課長】

国民に納得できる最終的な判断,量刑を示すためには,一つは公平でなければならない。それからその被告人の個別の処遇にも適したものでなければならない。その要請自体は恐らく異論はないでしょう。個別の事件でそれをプロだけでやっているとどうしても過度に精緻になっていき,ある意味では国民から見てブラックボックス化していくという皮肉な現象があったことは事実だと思います。そこを少なくとも6人の人が入って一緒に議論をした結果がこうなったということで,随分国民の受け止め方が変わるだろうと思います。これは非常に大きな意義があると思います。
もっとも,判決の中で,説明として量刑のプロセスが明らかになれば,さらに良いことなのでしょうが,裁判員が入ってくれたことによって果たしてそこまですべて議論のプロセスが明らかになるかどうかについては,まだまだいろいろ我々としても考えなくてはならないところがあるというのが率直なところです。

【篠田委員】

納得を得るためのプロセスに国民が入っていくと,国民の一般的な常識も入って,司法に参加しているということが確かに示されて裁判の結果に対しても納得がいくだろう。判断の結果が納得いくかどうかというよりは,その過程において一般国民が参加しているということで説得力が増す。それらはむしろ,制度を導入する側の事情だと思います。むしろ国民の側から見てすんなりと納得することにはならないけれど,説得力が増していくための一つの判断として,国民が納得しやすいように複数の国民が参加するということだと思います。
それを打ち出したとしても,国民にとっては,たとえ実際に自分が選ばれてもあまり関係はない話なのです。理念についてどのような議論がなされてきたかというお話がありましたが,これは意義というよりは,選挙に来なさいというのと同じ意味合いで,「義務であり権利である。あなたにとってどういうメリットがある。不安・負担感に関してはこういう対策を用意しています。これは国民の義務なのですよ。」とはっきりと伝えた方がよいのではないかと思います。権利に関してのことであれば,それが国民にどういうメリットがあるのかということが問題でしょうし,義務をどう伝えていくかということであれば,「こういう意味があります,ただしそれがあなたの利益になるかどうかは関係ありませんよ。むしろ負担になる場合もあるけれども我慢しなさい。」ということになります。遊びに行きたい日曜日に時間を割いてわざわざ投票に行きなさいというのと同じことで,その1票がどういう意味を持ってくるかという参加理念を打ち出していった結果が選挙制度だと思います。「たかだか1票ぐらい何の意味を持っているんだ。」とみんな思いつつも,行かなければならないという義務感から行っているという気がします。裁判員制度はそれよりも何倍も負担としては大きいものです。正攻法で,先ほどから言われているような意義のために国民が参加するということを,議論を重ねながら繰り返し伝えていくしかないだろうと思います。負担感や不安感に対してどう対処するか,どういう広報をするかは,また別の話だと思います。

【戸倉審議官】

裁判員制度の意義をどう伝えるかという点については,まだまだ御意見を伺わなければならないかと思いますが,時間の関係もありますので,次は国民の不安や負担感に対してどう応えていくかという点について御意見を伺いたいと思います。
この国民の不安,負担感には,二通りの原因があると思います。一つはやはり裁くことへの不安というものであり,一体自分は何をしなければならないのだろうか,あるいは自分が裁判員として参加する場所や人,法廷,手続はどのようなものか分からないという点がまず第一だと思います。これは,分かったら分かったでまた別に不安はあるだろうと思いますが,まずもって具体的にそこをどのように理解していただくかという問題点が一つ。
もう一つは,生活面での支障,すなわち,勤務や介護,養育などといった問題に対してどう対処していくか。広報という観点からはこんな方法がありますよということをお知らせしていくことになりますが,こういった方面の不安,負担感に関する広報活動がどうあるべきかというところに焦点を当てて話題にしていただきたいと思います。
まずその前提として,これまで刑事裁判に関するものを含め裁判所がどのような広報をしてきたかということについて,反省する意味も込めて,広報課から説明させていただきます。

【大須賀広報課付】

それでは,資料4の1ページを御覧ください。
裁判所の広報活動を大きく見ますと,裁判所が直接やっているもの,政府や地方公共団体にお願いして広報していただいているもの,それから学校等を通じて法教育の形でやっていただいているものと分けられます。
メディアとしては,左にありますとおり,インターネット等を通じて直接行っているもの,講師を派遣しているもの,それから広報用ビデオを政府や地方公共団体にお貸しするものなどです。刑事裁判について特化した広報活動というのは今までは行っていませんが,裁判所がいろいろやっております広報活動の中の一つとして刑事裁判もこれまで国民の皆様に伝えてきました。
2ページ目はインターネットについてのイメージです。裁判所のホームページでは判例情報や,手続紹介として民事や刑事の裁判の手続を御紹介しています。
3ページ目は広報テーマという,月がわりでいろいろなテーマを設定して,対談形式で制度などの説明をしているものです。これは裁判所で原案を作り,自治体の広報誌などに地・家裁を通じて掲載依頼をしています。
それから4ページ目が広報誌「司法の窓」についての説明です。これは著名人との対談や最高裁判所判事の随筆,あるいは海外の司法事情などを載せているもので,年2回発行しています。最近ですと,5月に沢松奈生子さんに対談に登場していただき,民事裁判についてお話をしていただきました。この「司法の窓」の中でも,刑事裁判についてはトピックスの形で取り上げております。
5ページ目がパンフレットやリーフレットについてです。主に裁判所に見学に訪れた方や裁判傍聴に来られた方に配布しているものです。
なお,資料6の「裁判所ナビ」の中でも,刑事裁判については,7ページにおおよその裁判の流れを載せて説明しております。
また,資料8の「法廷ガイド」は,裁判傍聴に来られた方にお渡ししているものです。裁判で使われる言葉や法廷に座っている人がどういう人たちかということをイラストで説明しているものです。
それから資料4の6ページ目は昨年制作したビデオの一場面です。「知っていますか,裁判所」というタイトルで,裁判手続全般について,CGや実際の法廷の映像などを使って説明しております。
資料4の7ページ目では,見学会や模擬裁判などについて,最近行ったものを紹介しています。右側の写真は静岡地方裁判所で行われた模擬裁判で,夏休みの期間などを利用して小中学生に裁判所に来ていただき,実際に模擬裁判をやってもらったものです。左側の写真は最高裁判所で夏休み期間に行っております親子見学会の模様です。こういった機会に裁判官や裁判所職員から,刑事裁判の手続について説明させていただいています。
8ページに講師派遣とありますが,最近各地の裁判所では裁判官が学校や公民館などに出かけて行って,裁判に関するお話をさせていただくという機会をいただくことがあります。こういったものについても,できる限り応じています。
資料5-1から3が,裁判所のホームページで刑事手続について説明している部分です。御覧のとおり,字ばかりで,本当に読ませる気があるのかと疑われても仕方ありませんが,刑事裁判について具体的な事例を基にどういった手続が進んでいくかを説明しております。
以上,おおまかに説明しましたが,さまざまな広報の一つとして刑事裁判についても触れてはいますが,特出ししてではありませんし,必ずしも十分な広報がなされているとは言えないかもしれないという状態です。

【戸倉審議官】

今までは,刑事裁判に国民が傍聴に見えたときにも,自らが参加していく対象として親しみやすいものかどうかという意識では見ておられなかったように思われます。
また,国民一般に対しても,当事者が申し立てをする家事事件などについてはかなりユーザーという立場を意識した広報をやっていますが,刑事事件では,ユーザーという発想は必ずしも適切ではありませんので,そのような広報をやっていなかったのです。

【平木委員】

このホームページにはどれくらいのアクセスがあるんですか。

【大須賀広報課付】

最高裁のホームページのトップページにはカウンタを設置してあり,アクセス数はすぐに分かるようになっておりますが,この刑事事件のページ自体にどれくらいのアクセスがあったかという形ではデータをとっていないので,分かりません。いろいろなページが最高裁のホームページにあり,総体として言えばかなりのアクセスがあるという程度しか答えられません。
ちなみに,平成13年からホームページを開設し,今日現在まで,368万8949件のアクセスがありました。

【戸倉審議官】

ページがたくさんあって最後のページまで行き着く方はなかなかいないでしょうし,いざ開けてみれば字ばかりという状態です。しかも法律を学ぶ学生などが読めばなるほどという程度の内容になっている。少なくとも法律的素養のない方が本当に理解できるような書き方がしてあるとは,現状では言えないと思います。
そもそも,人を裁くことに対する非常に強い不安感や重いイメージがあり,新聞の調査でも自分は参加したくないという理由の中で見ても,やはり裁くことに対する不安感といったものを一番感じておられるようですが,今後そのような不安を解消して参加していただくためにはどういうことを伝えていけばよいのか。委員の皆さんが裁判員に参加するという感覚で今のパンフレットなどを見たときに,「この辺がやっぱりちょっと不安だな。」,「この辺が全然説明されていないな。」という部分はがあればお聞かせ願いたいと思います。

【平木委員】

私は,いろいろなことを聞けば聞くほど不安が高まると同時に,もう一方では納得する面もたくさん出てくるので,広報が広がっていけば不安だけでなく,いろいろ分かるところも出てくると思います。そういう意味では,内容的なことではなく,痒いところに手が届くようなことをやればよいと思います。今アクセス数をお聞きしたのも,そのような趣旨からです。
要するに,裁判員制度自体ではなく,広報自体も国民からのフィードバックをもらえる形にしていくことが良いのではないかと思っています。この絵を見ていると,矢印が一方的です。広報というものは一方的なものだとは思いますが,これがもう少し相互交流的になっていくと不安がよく見えるのではないかなと思います。私自身も,不安を申し上げる1人に入っているだろうと思いつつ,何かもっと素朴なナイーブなものを取り上げる方法を探して,それに何か答えるという方法が必要で,そのようなプロセスを踏むことに意味があるのではないかと思っています。

【藤原委員】

多くのウェブページの中には,電話番号すら書いてないようなものがたくさんあります。あたかも,「ウェブページがあるからもう電話をかけてくるな。」というようなものが企業などではたくさんあります。やはり,インターネットではコミュニケーションができますから,今裁判所のホームページにないのであれば,ぜひ質問や伝言,意見などを聴取できるようなコーナーを設け,双方向で運営されることが非常に重要なことではないかと思います。
また,私が裁判員に選ばれたと言われたら,出向いていってどのようなことをするのかと聞いてみたい気持ちもしますが,それ以前に,どのくらいの時間の幅があるのか聞きたいです。例えば,「裁判員になっていただきたいので出頭をお願いします。」と呼び出され,一連の質問を受けて自分自身が答えるわけですが,その日から実際に裁判員として裁判をやらなくてはならないときまでに,どれぐらいの余裕があるのか。そのようなことを私はプラクティカルなこととしてかなり感じています。例えば,原則として何日前までにそれが通知されるか枠組みとしてでも決まっているのであれば,やはり「裁判員制度は」という説明のときにはきちんと書いておく必要があるのではないかなと思います。
それから,広報の対象になる部分で特に不安がある,負担感に関してですが,例えば,自分が裁判員として任務を果たしている間に仕事を休まなくてはいけないというときに,どのような補償や手当がなされているのかということはやはり事前に知りたい問題だと思います。そして,この問題の対応には,二つの方法があると思います。
一つはいわゆる経済団体に広く働きかけて,雇用主側の自主的な施策を考えていただくことが大変重要だと思います。選挙は日曜日ですから休暇は要りませんが,今や介護のための介護休暇が認められているように,裁判員に任命されたときに関して制度的に雇用者サイドで何か手を打ってもらえないかということが一つです。
それから,どのくらい選択の余地があるのかということです。今回は参加できないけれど,猶予がある次回には参加するといったことができるのか。オール・オア・ナッシングで1か月しか猶予がないというスケジュールではずっと参加できない人が出てくるのではないかという気がします。このあたりの枠組みというのはもう既に確立しているのでしょうか,それともまだ今からそれを作っていくということなのでしょうか。

【大谷広報課長】

まだそこは決まっていません。しかし,今の最後の点は非常に重要な点で,ある日出られなければもうそれでおしまいですよという,固い運用をしていては広範な層の方に来ていただけないということは確かにそのとおりです。ですから,柔軟に運用していき,広報の前提としてのこちら側の体制を整えていく必要があることはおっしゃるとおりだと思います。

【河本総務局参事官】

企業側の自主的な努力といっても,それぞれの資本力もあり規模もあり,なかなか難しいところでしょう。受け止めることができる企業とそうではない企業がたくさんあって,まだこれから作らなければいけない制度もたくさんあり,育児休業とか介護休業のような一般的,社会的に認知される休業となり得るのかどうか,なかなかそのあたりは適用が難しいところです。

【藤原委員】

国民すべてに公平に課された義務であるとすれば,裁判員制度は育児休業と介護休暇と何ら変わりはなく,ただ後発であるということだと思います。しかし,育児休業にしても介護休業にしても,制度化されたのは比較的最近です。 それから企業規模とおっしゃいますが,大企業でも苦しいところもあれば中小企業でも大変豊かなところもあります。私は,法人として,やはり一つの努力目標として公正に公平に課してもらいたいし,そうした動きが使用者サイドで出てくればと思います。このようなことは,働きかけるに値するのではないかと思います。皆さんが多分,今までなかったものが今後必要になってくるということで躊躇されるのは分かります。しかし,あまねく成人であれば義務として課されることであれば,当然企業にも求めておかしくないことだと私は思います。

【大谷広報課長】

少なくとも,一般国民をターゲットにした広報だけを考えていたのではいけないわけです。使用者側に立つ人たちに対しての広報も別途やっていかなければならないと思っています。

【藤原委員】

使用者側がどういう答えを出してくるかは別にして,少なくともそれが義務であるということの認識が得られないようでは,働いている者としては時間の余裕もさることながら,ある日突然言われて何カ月後のいついつと言われたときに,やはりそれに応じられない人がたくさん出てくるのではないかと思います。そうなれば,およそ出て来られる人ばかりが裁判員になるという大変ゆがんだ代表制になるわけですから,そういう意味では環境を耕すということが大変重要であり,広報活動というのはまさにその耕すことです。だからいろいろなターゲットに対していろいろな働きかけをして,そしてさらに一歩進んで,制度的にそういう制度を作ってほしいと思えば,それに対してさらに積極的に働きかけるなりいろいろな意見交換の場を設けることが大切だと思います。その場合に,実際の運用に当たっては,どれくらいが雇用主にとっても雇用されている者にとってもリーズナブルなスパンなのかということについて,実際に動員しなければいけない人たちの事情を踏まえれば踏まえるほど,参加しやすいものになるのではないかと思います。

【楡井刑事局参事官】

裁判所にお越しいただくまでのタイムフレームに関しては,法律の構造上は,「候補者名簿」に登載されたときに裁判員候補者として裁判員として呼ばれる可能性がありますという御連絡がいくという形になります。御連絡が行った方は,それから1年間は裁判員候補者として呼ばれる可能性があることをその時点で認識していただくことになります。ただ,その後実際に候補者として裁判所にお越しくださいという連絡と実際にお越しいただくまでの期間をどれだけとれるかということが今後の我々の検討の課題です。

【藤原委員】

その検討は,多分裁判所の御事情でこれくらいが適切である,ということは皆さんからヒアリングをなされば出てくると思いますが,実際に来る方としてはどれぐらいが現実的であって,リーズナブルであるかということの事情聴取はぜひ必要なのではないかと思います。

【大谷広報課長】

恐らくもう一つその先に,今度は実際に審理にどのくらい時間がかかるのという問い合わせが必ず来るのだろうと思います。それについて,ある程度確実な見通しが答えられませんと,そのとたんに「そんなものには行けるか。」ということになるでしょう。恐らくこれは広報の問題ではなく,裁判官,検察官,そして弁護士の法曹三者が,こういう制度を導入した以上,国民に対して負っている責任だろうと思います。いかに短く,しかも予測が確実な期間内で審理を終結することができるか,その見通しをお伝えしてから,行ける行けないの話になるので,この点については広報とは別の問題として,今でも法曹三者の間で協議をして,できるだけきちんとした運用ができるようにしようと努力しているところです。

【藤原委員】

平木先生がおっしゃったように,我々が何を伝えようかという以前に,国民参加の裁判員制度に対してどう感じているのか,何を思っているのかというのは,今日からでも聞くべきだと思います。最高裁ホームページのあなたは何人目のアクセス者ですよというページなどに,「あなたは裁判員制度を御存じですか。もし御存じであればどのような感想をお持ちですか。どのようにお考えですか。」ということが,出るように,設計を少し修正すれば良いのではないかと思います。

【吉田委員】

私もそのとおりだと思います。結局,裁判員候補者名簿に載ってから実際に裁判員に選ばれて,その裁判に参加する過程でどの程度時間的な拘束をされるのか,裁判員候補者名簿に載ってから実際に裁判が開かれるまでどの程度の期間があるのか,実際の法廷に出るどの程度前に本人に通知が来るのか,また,本人の都合は全く聞かれずに裁判所の公判の日程に従ってそのとおりに動かなければいけないのか,というようなことなどを明らかにしていくということが大事だと思います。だから,これからの一般的な広報で,意義を伝えていくことももちろん大事ですが,具体的に裁判員についてはどういう仕組みで,具体的に裁判にどういう格好で関わっていくかということをきちんと明らかにしていくことが大事だと思います。
それからもう一つは,裁判に参加する人は仕事を持っている人が多いのですから,やはり企業に対してもそういう人たちについては,参加することが求められているのだということをよく理解してもらうことが必要です。裁判員は原則として参加しなければいけないので,それについて企業側も便宜供与を図るということをきちんとお願いをすることが必要なのではないかと思います。選挙の話が出ましたけれども,今は大体国政選挙は日曜日にしますが,かつては日曜日でなくてウイークデーにやっていたときもありました。そういうときにも,やはり政府からいろいろと関係企業の方に投票参加の便宜供与の依頼をしたこともありました。選挙は1日の内で適当な時間に出れば良く,裁判員の仕事はもっと長いですから,その分大変かもしれませんが,そういうことをしていく必要があるのではないかと思います。
それともう一つ,不安感・負担感の話ですが,一般的に刑事裁判と言うと,やはり一般の国民にとっては遠い存在であるという認識があると思います。これは,専門家が専門的な知識に基づいて人を裁くのが刑事裁判で,一般の人には,この人を有罪にするかどうか,あるいは量刑をどのくらいにするかは,なかなか判断できにくいという認識があると思います。今そのような状況であると思うのですが,この裁判員制度は裁判官と裁判員が協働して行うわけですから,裁判員になったからといって裁判官と同じレベルで,同じ知識,同じ能力を要求されるのではない。一国民として非常に素直な感覚で裁判員として判断するのだからそんなに難しい話ではないということをよくPRする必要があるという気はします。

【戸倉審議官】

まさに法律の専門家ではない国民に入っていただくことが一番の制度導入の意義と考えております。その点をどう伝えていくかという議論になろうかと思います。
平木委員は裁判を傍聴された御経験がおありですが,率直におっしゃっていただいて,よく分かりましたか。

【平木委員】

分かりませんでした。私はこれまで2回傍聴しましたが,まず被疑者と被告人だったか,こういう言葉も一般の人たちには難しくて,聞いているとだんだん分からなくなってくるだろうなと思ったくらいで,まず言葉が難しいということが確かにあります。資料5-1にいろいろ言葉の説明がありますが,「刑事の捜査」,「捜査とはだれが行いますか」,資料5-1の2ページの「逮捕とは何ですか」や,「勾留とは何ですか」という言葉の問題だと思います。一般の人にとっては,言葉がまずとても難しいのです。
それからもう一つ。これは犯罪心理学で聞いたことですが,殺人とか強盗には犯罪のプロがやっているような職業的刑事事件と,エスカレート型の刑事事件,つまり,ささいなことから始まって最終的には殺人とか強盗という重大な事件になっていくものとは性質が違うということです。そのように考えると,私たちが国民として何かやれる,素人にもよく分かる,ここはこうだと貢献できるというのは,後者の方なのかなと思います。

【井田委員】

よく我々も職業犯と機会犯という言い方をします。職業犯は,別に犯罪を職業としているということではなく,累犯者・常習者のような者です。機会犯は,たまたま一過性というか,そのときの状況で犯罪を犯してしまった者のことです。ただ,機会犯とは言えない組織犯罪でも,一般の方が非常に怖い思いをしていることがあるでしょうし,自分の周りでこのようなことがあり非常に怖い思いをしたということを訴えかければ,それがまた議論の判断に供することはあり得ると思うので,別に機会犯だけが分かりやすいというわけではないと思います。

【平木委員】

機会犯だけとは思いませんが,そちらの方が非常に常識的なレベルで考えることができると思うのです。

【井田委員】

我々が,よく理解できる被告人と理解できない被告人ということですか。

【平木委員】

そういう感じです。

【戸倉審議官】

裁判員が担当する事件は重大な事件ですが,例えば,殺人事件と一言で言いましても,その中身は職業犯みたいな人もいれば機会犯というか,その場のささいなことから人を殺してしまったというような,いろいろな場合があると思います。いずれにしてもその双方に,参加していただくことになります。

【井田委員】

制度自体の中身がどうなるのかという問題自体,まだ今は流動的ですが,それと広報との関係についてのイメージがうまく整理できない面があります。例えば,裁判員が刑事裁判で何をするのかというレベルの話では,裁判員は基本的に事実認定をする,あるいは量刑をし,法の解釈は裁判官ですよ,というふうに分けられていますが,それほどきれいに分けられる問題ではないのではないかと思います。例えば,因果関係があるかないかという判断はどちらの問題なのか,あるいは空のピストルを撃っても弾は出ませんがこれは殺人未遂ですか,というような具体的な場面で,これらがどちらの問題なのか,必ずしもまだ明確になっていない気がします。
一例に過ぎませんが,例えば辞退できる事由としても,果たしてどういう場合に辞退できるかという線引きもはっきりしない。あるいは別にキリスト教でも何でもないが死刑は昔から嫌でしたという人が辞退できるかどうかなど,法律レベルではなくて規則レベルの問題でしょうが,そのあたりの制度設計自体がまだ確定していない面があって,国民に対してどのように広報するかについても,まだ答えが分からないところがあります。あるいは,場合によっては土日開廷してもよいのではないですかというときに,それを果たしてやる気になるかどうか,できるかどうかという問題もあります。
あるいは,外国の例を見ていると,自宅から大体10分,15分のところに裁判所があるわけですが,そういう環境で裁判員に司法参加してもらう場合と,日本のように裁判所に来るまでに片道1時間半はかかる人がいる場合にどう考えるのか。裁判所は動かないので裁判所までおいでくださいと国民に負担を掛けることは,拒否の起こる要素になるのではないか。あるいはもっと裁判所を作りましょうとか,出かけていって裁判をやるのはどうか,そのあたりは制度自体にまだ考える余地,考慮すべき工夫の余地があると思います。その関係で広報もある程度考えなければいけないかと思いますが,どうでしょう。

【大谷広報課長】

おっしゃるとおり,結局ある制度が完璧に運用まで固まって,それから広報だと言えば,それは一番良いことですが,それでは実施が先になってしまいます。現実には,制度設計を細かくしていく作業と同時に,広報が行われています。そういう意味では,今先生が幾つか質問されたことについて,例えば国民の方から質問があってもちょっとそこは答えられませんと,あるいは先ほど藤原先生からお話があったスケジュールを確実に言えるのかと問われたときに,そうはしたいと思って現在法曹三者で検討中ですという答えで,国民が信頼してくれればよいのですが,不安もあるでしょうし,どうしてもそのようなことが残ってしまいます。そのような現状の中で,広報をどのような段階でどのように行っていくのがよいのかという問題がありますし,一つ一つの制度が固まっていく中で広報をしていかなければならない,そのあたりの難しさをいろいろ抱えていると思っています。

【河本総務局参事官】

現時点では,裁判員法に定められているところまでということになりますと,どうしてもそのような答えになってしまいます。しかし,その範囲でも広報する意義はあると考えています。

【戸倉審議官】

どうしても具体的なイメージ,特に先ほどの,いつ呼び出されてというところは,具体的イメージとしてまだ提示できない部分で,そのような部分が結構あります。個々の国民が支障があるかないかを考えるにしても,もう少し具体的に,いつどのように裁判員をやれと言われるのかということが分からないままでは,よいのか悪いのかということを言えないのではないかと思います。しかし,逆から見れば,今まさに細かい規則や運用について,法曹三者でも検討しているという過程ですので,広報をしていく過程で,そのような国民の不安といったものが伝わってくれば,それを制度設計に反映させることができるのではないか,営業サイドから製造部門に注文をつけるというようなイメージやっていくことで可能ではないかと思っております。その意味では,この広報をしていく際には,皆さんの意見を聞きながら制度を作っていく面もありますということを,率直に言っていくべきであろうと思っています。
国民にお伝えすべきものが多々あり,まだ幾つかは伝えたいものも決まってないという部分もありますが,少なくともはっきりしているのは裁判に来ていただくということです。「裁くことは大変ですね。」と言われたときに,我々はどう答えるべきか。「大変じゃないですよ。」とも言いづらいし,あまり大変だと言い過ぎるとかえって溝ができてしまうとも思ってしまいます。そのあたりをどのような伝え方をすれば良いか非常に迷います。Q&Aを作るときも,「人を裁くことは大変ではないですか。」という問に,「いいえそんなことはありません。」としたのでは言いたいことが伝わらない。しかしどう伝えればよいのか,そこが分からない。正直に言えば一番よいとは思いますが。

【大谷広報課長】

小説や映画,テレビなどを通じて,一般的に裁判が関わる情報は,国民に随分提供されていると思いますが,やはり依然として裁くことへの不安感というものはかなり強いと思います。そのような現実を前にしたとき,我々が広報するにあたり,どのような点をさらに考えていかなくてはならないかということが素朴な疑問としてあります。

【篠田委員】

多分,質問の仕方によって,人を裁くということは大変なことであるし,私は人を裁きたくないという答えになって出てきていると思います。どのような質問項目に対する答えだったのかというのも分からないので,はっきり言えませんが,世論調査などでも質問項目によって必ずしも本音の部分で答えられるかどうかという疑問が出てきます。だから,人間を裁くことに対して抵抗があるというようなニュアンスとして回答が受け止められていると思いますが,人の根源というのはこんなに立派なものではありません。人を裁くことに対する不安感は,本音として言ってしまうと,「恨まれるかもしれないから嫌だ。」という気持ちだと思います。人間として裁けないということは,必ずしも宗教的な意味ではない。だから欧米のような感覚でこの答えを受け止めたら見誤ってしまう。つまり,人と人との関係の中で自分が裁いていくということに対する重さみたいなものを考えると,裁判員になったとしても,あなたがどういう判断をしたかということは一切公表しないということを,きちんと打ち出していくことが必要だと思います。報復されると思い込む人はあまりいないと思いますが,こういう判決を出したことで自分が特定される,恨みを買うかもしれないことへの怖さ,その方がやはり不安というか,人を裁くというのは嫌だということの根源ではないかと私は思います。そのあたり,裁判員になった場合に,あなたはこうやって保護されますということをはっきりさせていくことが大事だと思います。
もう一つの不安は,やはり法律は難しいということです。「専門家である裁判官と協働しながら」と何回も繰り返し出てきましたが,協働という意味がどうも今ひとつよく分かりません。イメージされないので,どのような実態なのかといったことを,例えば,イラストやビデオなどいろいろな形で,裁判官と対等な知識を要求され,議論しなければいけないということではないことを認識させていくことが必要ではないかと思います。
一般の人々の常識や感覚を裁判の中に反映させることによって,妥当な判決も出てくるのではないかという期待が裁判所にあるのと同じくらいに,実はサラリーマンなどにとってはリーガルマインドが一つの憧れの対象なのです。例えば,総務担当の女性にとっても,最終的にその仕事が法律に行き着いてしまうことがかなり多いですから,法律を知らなくてはこの先OLもやっていられないという思いもあると思います。また,出版社の文芸に携わって,一番法律に関係のないところで仕事をしているサラリーマンと話をしていても,法律を知らなくてはサラリーマンが務まらない部分があるので,とても深刻に受け止めています。確かにこれは民事ではなくて刑事ですが,リーガルマインドということでは変わりません。そこにあなたが関われるということ,今まで一生懸命専門書などを広げて勉強してもなかなか感覚として分からなかった部分も,法律の専門家と一般常識で考えて議論していく中で,交流ができ,分かってくる。この制度は裁判官とあなたの協働であり,法律の専門家と交流することで知識の交換ができてくる。「あなたもリーガルマインドを取得できますよ。」ということは魅力的であるし,それは同時に経営者側に対しても裁判員に従業員を参加させる意義付けにつながるのではないでしょうか。国民が自分自身の法律に対する意識を高めていくということは,大変有益だと思っております。

【平木委員】

心理学の世界でも「協働」という字を最近随分使うようになりました。これは,アメリカなどで使われているコラボレートの訳で,違った立場の人たちがお互いに働きかけ合って何か一つの方向に向かって協力するという意味で使っています。違った立場の人が一つのことに何らかの知恵や働きかけをし合って,方向性をつくるということをうまく伝えていくことかなと,篠田先生のお話を聞いていて思いました。「あなたの立場で,あなたの持っているもので参加してくれればいい。」と,それが伝わるとよいと思いました。

【戸倉審議官】

ともすると裁判所は,裁判員制度を余り歓迎していなくて,参加される国民をお飾りにするのではないかとか,いろいろな指摘をされる方もいます。しかし,裁判員制度が導入され,裁判員を受け入れる裁判官の立場から言えば,ぜひ参加していただきたいと考えております。まさに今おっしゃいましたように,この制度は,決して同質化を求めるものではなく,違う立場で我々が気づかないところについていろいろなことを言っていただきたいというものです。それだけに,裁判官としても,そういう方とかみ合う議論をして結論を出していくということが非常に難しい,学ばなければいけないことだと思っています。国民にとって,裁判官は,分からないところで難しいことをやっている,そういうイメージが強いのかなとも思っています。実際に一度も合議の中に入っていただいた経験がないわけですし,特に合議の秘密の問題もあって,今裁判官たちはこんなことを話していますよということはあまり開示できませんでした。しかし,現在でも法廷傍聴の機会に,裁判が終わった後で裁判官がいろいろ説明はしています。ただ,私が少し心配なのは,今の裁判を国民に見ていただいても,先ほど平木委員も分かりにくい,難しかったとおっしゃったように,かえってさっぱり分からないじゃないかと逆効果になるのではないかという点です。広報,例えば法廷傍聴などで我々が審理をし,あるいはその後で御説明をしたりするというときに,気をつける点,あるいは伝えたら良い点について何か御意見はございますか。

【渡辺委員】

一般向けの法廷傍聴に御一緒させていただくこともありますが,最近は法曹三者の方も意識されているのか,ひところよりはきちんと説明されているようですね。
数年前に中学生のグループと一緒に刑事法廷を傍聴して,終わった後に「どうだった。」と聞くと,やっぱり何をやっているのかよく分からなかったという声が多くありました。そのとき,中学生たちも言っていたのですが,何より被告人や証人が,自分が今何を求められているのか,何を裁判所なり検察官なりが聞き出そうとしているのかということが分かっていない。にもかかわらず,審理が進んでいる。そんな場面もしばしばありました。裁判員制度導入云々とは全く別に,刑事裁判に本来求められている機能を発揮する上でも大いに問題があると思います。やはりそのあたりは法曹三者で意識や法廷慣行を改めていただきたい。法廷が終わった後の交流というか,裁判官から説明をするときにも,先ほどの双方向の問題ではないですけれども,「どうでしたか,声は聞こえましたか。難しい言葉はありませんでしたか。どの用語が分からなかったですか。」というようなことを必ず聞いていただく。そういった結果を参考にして,改善を重ねていっていただければよいのではないかと思っています。
それと,不安感の解消の問題では,皆さんおっしゃるように「協働」という概念をキーワードに,裁判員に期待されている役割はこれですよ,専門家はこういった氏名を担いますよということを,繰り返し丁寧に示していくことが必要だと思います。
あとは,順番からいくと後の方になるとは思いますが,やはり守秘義務規定に関する不安をお持ちになっている人も多いと思います。裁判員の保護規定をめぐっては報道に携わる者として疑問や不満もあるのですが,それはそれとして,やはりそういったところへの目配りも,これからやっていく広報のテーマの一つの柱でしょう。もっとも,これはそれほど難しい話ではなく,なぜ守秘義務規定が設けられたのかという理由を,分かりやすく説明していくことがすべてだと思います。「これは参加する市民が自由に発言できるようにするための規定なのです。別にあなたたちを縛るためではなくて,あなたたちを守るために,そして審理の自由を確保するために設けられた規定なのです。」というところから,きちんと説き起こしていけば,不安感や負担感はまず解消されると思います。そのような中で,評議の場での自由な発言が何よりも大切だということが伝わっていけば,自分が発言することに後ろ向きになることもないし,もしかしたら何か役に立つかもしれない,あるいは篠田さんがおっしゃったように,自分にとってもいろいろなプラスが見つけられるのではないかという,そんな気を引き起こすきっかけにもなるのではないかと思います。

【藤原委員】

先ほどわが国は世界に類を見ない,起訴をすると99パーセント以上有罪になるとおっしゃいましたが,不起訴処理に納得できない方々もいるわけです。すなわち,刑事の法廷にすら立たせることができないようなケースが多いと思いますけれども,この裁判員制度を導入することによって,変わる可能性があるのでしょうか。

【戸倉審議官】

我々専門家がどう判断するかは,お互い専門家同士で分り合うというところもあります。おのずと予想される範囲で有罪になる可能性がなければ,検察官としては不起訴にしてしまえという専門家としての判断です。そのわずかな齟齬が0.何パーセントなのです。齟齬と申しましたが,長いスパンで見ていけばそこにいろいろな国民の意見が反映され,専門家同士の分かり合った非常に精緻な世界ではなく,もう少し多様な判断がなされてくるだろうと思います。そうなったときに,一方で,検察官がこういうものは司法の判断を経るべきではないかと違う判断をして起訴しようということがあるかもしれません。しかしストレートに,劇的には変わらないと思います。

【大谷広報課長】

裁判員制度自体が起訴率を高めるということはないと思います。ただ,思想として,国民が加わった法廷で白黒決した方がやはりよいのではないか,専門家だけで有罪だ無罪だということを決めてしまわない方がよいだろう,という考え方が浸透していくのではないかと思います。また,今回の制度改革の過程で,検察審査会の制度について,やはり起訴はすべきだという国民の声が検察官に対して拘束力を持つような改革が行われていますので,この影響も出てくるだろうと思います。

【藤原委員】

多分にテクニカルな世界ですね。専門家だけでやっていらっしゃるから,だから明らかに疑わしいと思いつつも結局ここまで裁判には耐えられないとか,起訴をするには決定的な何かが不足しているとなると,テクニカルなレベルで起訴できなくなってしまうということですね。

【大谷広報課長】

問題としてはもう一つ,日本の法文化みたいなものがあるとは思います。つまり,起訴されたことについてのスティグマといったものが非常に強くて,無罪になると「なぜあんなのを起訴したんだ。」というリアクションがマスコミも含めてあるわけです。そうなると,検察はやはり確実なものだけを起訴していこうとします。これは恐らく,有罪か無罪かというのは裁判で決着すればよい一種のゲームなのである,とにかく疑わしければどんどん起訴していって,あとは裁判で決めればよいのではないかという,アメリカ流の裁判の見方に対してかなり対極的なところに立っています。こういう要素もあって,裁判員制度の導入というようなことだけでは,変化は生じないのではないかと思います。しかし,一方で裁判員制度が導入され,他方で検察審査会の制度が変わってくることによって,今までの考え方に少し変化の兆しが出てくるのではないかと,私は思います。

【戸倉審議官】

次回は10月20日午前10時から中会議室で行います。